竜馬がゆく。

昨日はあかんことをした20の夜フッフー(反省



うん。

1冊のプレビューを長くしてはどうか?と言われたので、今回は

竜馬がゆく

新装版 竜馬がゆく (1) (文春文庫)

新装版 竜馬がゆく (1) (文春文庫)

だけについて、しかし真剣に書きます。こんちくしょー




この本、すごい好きです。
すごいすごい好き。
なんでこんなに自分のモチベーションになり続けるのかってくらい。

ちなみに
司馬遼太郎の200以上ある作品の中でも
売上数第一位
人気ランキングでも「坂の上の雲」に続き第二位の作品。

つまり、私が単に好きなんじゃなくて、万人に支持される作品だってことです。
その理由はどこにあるのか。




そこで

どこが素晴らしいのか、どうして勧めるのか書いてみようと思って1時間考えてみたんだけど・・・分からない。
くそ・・・なんだこれ・・・


パラパラと読んでみる。

さらに1時間考える・・・。










そこでふと。

あなたの人生が変わる瞬間っていつですか。


こんな疑問が頭に浮かびました。





人生が変わるなんて、そうそうない。

自分が積み上げてきた思考、クセや生活態度を変えるのは年々難しくなる。そんなことは最近分かりすぎている。


それでもなお、変わる瞬間ってありますよね。

今までの自分を引きはがすように、新しいものに目を見開いてしまうことってありますよね。


それっていつなんだろう。





そこにこの本が支持されるヒントがある気がしました。



この本は、
土佐出身の、身分もない、しかも浪人の坂本龍馬が、幕府を倒しちゃった経過が描かれています。
竜馬もすごいが、まわりのヤツも信じられないくらいすごい。




だけど、なんでこの人らは、こんな仕事ができたんだろうか。
時代の熱、っていうのもあるかもしれない。
でも、もし自分がこの時代、同じ性別、同じ身分に生まれていたら、同じ仕事はできたのだろうかって思ってみてください。
不可能だと思われた倒幕、もっと言えば薩長連合が、なぜ彼らには、なぜ竜馬にはできたのか。


おおげさじゃなく、司馬遼太郎さんはその疑問を数年考え続けたと言います。


以下、この文庫本8巻、3000ページを超える小説の「核」の部分を引用します。
私は、ここに「竜馬がゆく」が万人に支持される理由があると思いました。


場面は、
竜馬のおかげで薩長連合の下準備はできた。あとは薩摩・西郷さんと長州・桂さんが会えば完成だって言うところ。
しかし、二人とも感情的になって、その一歩に踏み出せない。
そこで、竜馬さんが西郷さんに「体面を重んじている場合じゃない!長州が可哀想じゃないか。」と吠えるように言う場面です。


筆者は、このくだりのことを、大げさでなく数年考え続けてきた。
じつのところ、竜馬という若者を書こうと思い立ったのは、このくだりに関係があると言っていい。
この当時、薩長連合というのは、竜馬の独創的構想ではなく、すでに薩長以外の志士たちのあいだでの常識になっていた。
薩摩と長州が手をにぎれば幕府は倒れる、というのは、たれしもが思った着想である。
公卿の岩倉具視も思ったし、筑前班長に惨殺された同藩の志士月形洗蔵もそうおもいつづけてきたし、竜馬と同郷の中岡慎太郎などは、もっともそれを思った。
(中略)

すでに公論である。
しかししょせんは机上の論で、たとえば1965年の現在、カトリックと新教諸派が合併すればキリスト教の大勢力が出来る、とか、米国とソヴィエト連邦とが握手すれば世界平和は今日にでも成る、という議論にやや似ている。

竜馬という若者は、その難事を最後の段階ではただ1人で担当した。

すでに薩長は、歩み寄っている。
(中略)
あとは、感情の処理だけである。
桂の感情は果然硬化し、席をはらって帰国しようとした。薩摩藩も、なお藩の体面と威厳のために黙している。

この段階で竜馬は西郷に、
「長州が可哀そうではないか」
と叫ぶようにいった。当夜の竜馬の発言は、ほとんどこのひとことしかない。
あとは、西郷を射すように見つめたまま、沈黙したからである。

奇妙といっていい。
これで薩長連合は成立した。
歴史は回転し、時勢はこの夜を境に倒幕段階に入った。一介の土佐浪人から出たこのひとことのふしぎさを書こうとして、筆者は3000枚近くの枚数をついやしてきたように思われる。ことの成るならぬは、それを言う人間による、ということを、この若者によって筆者は考えようとした。

竜馬の沈黙は、西郷によって破られた。
西郷はにわかに膝をただし、
「君の申されるとおりであった」
と言い、大久保一蔵に目を走らせ、
薩長連合のことは、当藩より長州藩に申し入れよう」
といった。
大久保は、うなずいた。
竜馬がゆく6巻 p245-247)

歴史が変わった瞬間。
歴史を動かしたのは、「長州が可哀想ではないか」という一言であり、それを言った竜馬でした。

この引用のキモは、
これを言われた西郷さんは、多分、コレを言ったのが坂本竜馬じゃなかったら動かなかった。ということです。
だって、薩摩と長州がくっつけば・・・というのはその時代の公論なのに、幕府なんてもういたらヤバいんじゃないかって風潮なのに、西郷さんも桂さんもそれを考えてたのに、お互い動かなかった。
二つの藩は、お互いを、もう何世紀もの間、ものすごく憎み合っていたからです。


なのに、なんで西郷さんは、竜馬さんの一言に動かされたのか?

自分が積み上げてきた思考、クセや生活態度。
つもりにつもったソレを引きはがすように西郷さんを動かしたのは、「長州が可哀想ではないか」、それを言った坂本龍馬、彼という「人格」との出会いだったと思うのです。


それこそが、引用の中でも太字にした

ことの成るならぬは、それを言う人間によるということ

ここです。
坂本龍馬という人の思想、生き方、行動。
これがトータルとして表れた「人格」によって言われた言葉こそが、人を動かし、ことを前進させた。
「ことを成らせる」=「人を動かす」ということは、言葉の内容ではなく、それを言った人格によって決まるということです。

金、権力、名誉・・・人を動かすものはいろいろあるけど、本気のギリギリのところでは、人格が最もモノを言う。


司馬遼太郎さんは、こう言ってるんじゃないでしょうか。
そして、それがこの本の最大のメッセージだと思います。←文章書いてて思った。





この本が多くの人に支持される理由。

私は、今までの自分を引きはがすような「人格」との出会いに、多くの人の心が震えたから。

竜馬さんという「人格」に動かされた西郷さんが、その後の人生、いやその後の日本までを大きく変えていったように、この本にも、人を動かし、変える力がある。
人を動かし、変えるほどのカッコいい人達、心から尊敬できる人達との出会いがたくさん、死ぬほどたくさん用意されている。
そして、薩長連合のように、その「人格」達が、人を動かし、ことを成立させていくを見ることが出来る感動もちりばめられているのです。

だから、こんなにも多くの人を感動させ続けているんじゃないかなあ。


「度量、海のごとし」の坂本龍馬をはじめ、
西郷隆盛木戸孝允勝海舟武市半平太、お竜さん。


彼らの生い立ち、日記、名言、育った環境・・・司馬遼太郎さんは、膨大な、本当に膨大な資料によって、登場人物の人格をとてもリアルに浮かび上がらせてきます。



例えば、西郷隆盛

「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は、始末に困る者成り、この始末に困るひとならでは、艱難を共にして、国家の大業はなし得られぬものなり」
「人のあとを慕ひ人の真似をする事なかれ」

など、多くの引用も使われていて、ああ、本当にこんな人がいたんだってリアルに伝わってきます。


内容ももちろん素晴らしい。
でも、本で出会う人々の人格が素晴らしいからこそ、そして司馬遼太郎さんの筆致が最高にカッコよくその人格を浮かび上がらせているからこそ、この本は読む人の心を動かし、人生まで変えてしまう力を持っているのではないでしょうか。


そこが、心が動かされる瞬間。


そんな気がします。

うん・・・どうでしょうか。


もちろん、人を動かすことって名誉お金権威とかいろいろあると思います。
本は歴史を100%描くことだってできないでしょう。


それでも、この小説が、これだけ人の心を動かすのは、人格との出会いに理由があるんじゃないかなあと思います。
ほら、やっぱり生活してても感動するのって、人間的にステキな人に出会ったり、TVでも本でも「こんな人が世の中にいるんだ!」って感動するときじゃないですか。
そういう人との出会いって、一時的な感動で終わるんじゃなくて、その後自分を変える力にもなるから、本で出会った人格達も自分を変え続けてくれるんです。




ことの成るならぬは、それを言う人間によるということ

正直、中学生の時はこの文の意味が全然分かりませんでした。
実はこの本はお父さんからもらったもので、この部分に赤線が引いてあったのです。
でも、その時の私は何が重要なのか分からなかった。

でも今は少し分かる気がします。
言う人の人格が、その言葉の価値を決めるっていうこと。

多分、このブログも私がどういう人間であるかで、説得力が全く違うんだろうなあ・・・(冷や汗



わりお。